「他者」があるから、「自分」がある。
中国の歴史小説を書き続けている宮城谷昌光のエッセイ集です。本書の特徴は何といってもその多彩な内容が凝縮されている点でしょう。「Ⅰ 湖北だより」「Ⅱ 中国古代の構図」「Ⅲ カメラ」「Ⅳ 他者が他者であること」の四章から成ります。第一章の「湖北」とは浜名湖北岸のこと。住処を移してからの日々が、歴史を交えて綴られています。第二章は著者の本業ともいうべき中国に関する内容が展開されています。特に著者の連載作品に言及した「『奇貨居くべし』連載を終えて」と題するエッセイは、主人公呂不韋に関する疑問点を中心に取り上げており、この小説を読んだ方には特に興味をもつ内容になっています。第三章は趣味のカメラについて。この章にもかなりのページ数が割かれていて、カメラに対する愛着の度合いが伝わってきます。そして最後が本書のタイトルともなった「他者が他者であること」の章。そのトップが同名のエッセイです。
文学について考えたことはあるが、歴史について考えたことはなかった、というのが正直なところである。
二十代のころに、歴史小説を侮蔑していた。
現在の活躍から考えると信じられない発言です。著者は現代を直視せず過去に逃げる歴史小説の価値を低く見ていたのです。やがて小説の原理を考えるなかで、悟性や他者について思考が及んでいきます。
自分は感性と理性とで創作活動をおこなってきたが、経験にうらうちされた理性を悟性とよぶのであれば、それが欠如していた。
(中略)
歴史は悟性の所産である。
そして次の言葉につながります。
歴史は行動の美学を教えてくれる。
著者は最初から歴史小説を崇拝していたわけではなかったのですが、時とともに、著者の思考とともに、著者の意識が歴史へと向けられていく過程がこのエッセイを読むとよくわかります。著者の小説の登場人物が語る一言ひとことには、著者の経験や考えが少なからず現れているのかもしれません。本書は、エッセイそのものを楽しむだけではなく、小説をより深く知るためのサブノートとしてみてもいいのではないでしょうか。